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2-5 存在一般の意味を学的に解釈するための地平から邪魔者を……①

1-4では多くの脱落者を生んだと思う。 仕方が無い。意味がわからないもんなぁ。 この節はノート4ページにわたって,まとめられていたので,分割してこまめに更新していきます。よろしくです。   ちなみにハイデガー的には前節間までで,存在問題の設定の 諸課題の特色をつけたそうだ。 それは, ・問いかけ先の存在者を確定しておくこと ・存在者に至る道筋を正しい様式で,明確に確保しておくこと の2点である。 この節で問題にしていくのは, ・現存在という存在者にどのように近づくのか, ・了解しつつ解釈する,ことは果たしてかのなのか, この二点である。 まず、ハイデガーは誤解しちゃいけない,と釘を刺している。 現存在が存在的・存在論的に優位=我々にとっては最も身近で,その都度現存在である。 しかし,最も身近だからと言って,存在論的には存在から最も距離が離れており その存在様式(つまりあり方,もしくは存在問題の解答)が直接的に渡されているわけではない。 ここもよくわかりにくいので例を出してみたい。 我々は頭を見ることができるだろうか? 鏡を用いれば確かに見ることはできる。人間にとっての鏡は恐らく他人であり,ただしその鏡も他人しか移せず,自分の頭に似ていると言うだけで,自分の頭として理解することは困難を極める。 存在者と現存在の関係性は第1節で見てきたとおり,現存在が存在することは存在者に了解され,同時に,存在者は現存在として了解されている。 もっと遠いというのは,観察が最も困難であることを示している。 では,どのように了解していけば良いのか? ハイデガー曰く「世界の方から、自己固有の存在を了解するという傾向がある」と述べている。 ハイデガーは相変わらず言葉が足りない。世界の方から,とは一体どういう意味なのか,全く説明されていない。 これにつながる,「したがって,現存在の固有な存在了解の内には,我々が後で現存在解釈への世界了解内容の存在論的反映として提示するであろうものが潜んでいるのである」とのべている。 従って、の意味は何だろうか?? と問いかけたい。 ものすごく主観的な言い方をすると,ぎんいろという現存在の存在了解は,そのときの諸態度によって決まる。例えば,大学にいれば大学教員だ...

1-4.存在問題の存在的優位

本節で語られているのは,存在を何によって解釈していくべきか,という点であると考える。 ここでの構成は, 1.学一般と命題の関係 2.実存の役割 3.現存在と実存の関係 の3点に絞られる,と思われる。 まずは 1.学一般と命題の関係 まずは学一般とは,というところになるのだが,実はこの節では説明されていない。次いで言うと,言葉としても定義されていない。 なので,私個人の定義になるのだが,キケロの「哲学はすべての学の母である」という言葉を見つつ,存在を存在論的に探求するために利用される,学問一般である,としたい。 例えば,心理学はここのあり方や,何らかの状況に対しての諸態度を探求する学問である。この学問の母が哲学であるのであれば,根源的に心理学は哲学と言える。 つまりここで言う,学一般とは哲学のこと,といっても良いだろう。 あくまで,存在を探求するための哲学,だが。   それで ここで言われているのは学一般と命題の関連性である。 命題 (めいだい、英語: proposition)とは、論理学において判断を言語で表したもので、 真または偽という性質をもつもの。 というわけである。ハイデガー曰く「命題には人の諸態度や存在者としての人を規定しるものを含む」と述べている。     命題の根拠付けは,何によってなされるのか? それが学一般である,とハイデガー述べている。 それ故に,命題が存在者を規定しているので,学一般も存在者の存在様式を規定するものである,と考えられている。 ここで,ややこの本題から分かれるのだが 文章通りに読み解いていくと,現存在と存在者の関係について語られている。 A,B,C,Dの現存在があるとき,現存在AはAという存在を了解することは可能である。しかしながら,B/C/Dについては存在を了解することはできない。 ここはデカルト的でシンプルなのだが,私は私を知っているが,他人については確信を持てない,ということを言っている。 それ故に,存在者Aには現存在Aのみが開示されており,そのほかの可能性については開示されることがないのである。 ここから,ハイデガーは,現存在が存在を了解しているが故に,存在論的に現存在が存在している何よりの証左である,と述べて...

1-3.存在問題の存在論的な優位

お久しぶりの,哲学部。 1.何のために「存在とは?」という問いが役に立つのか? 2.最も原理的であると同時に最も具体的な問いであるのか? という二つの問いについて,この節では取り扱っている。 まずは, 1.何のために「存在とは?」という問いが役に立つのか? なぜ問うのか。。 問うことにより,何らかの利益がるからである。 ここはあたりまえであろう。 ハイデガーは, 「存在者を存在者として研究し尽くして、すでにある存在了解内容の内で働いている諸学を可能にするアプリオリな条件,基礎付け、そして、諸存在自身を可能にする条件」 と述べている。 ハイデガーの原著は基本的にわかりにくい。 言葉が難しい上に,しかもその言葉が定義されずに使われている,ということが多い。 今回のケースでは,言葉自体は定義されているので,前節に少し戻るとわかるかもしれない。 まず,前提として 存在するということは存在者がすでに先行的に理解している。 私という人間が存在するためには,私という存在者がいなければならない。 ただし、これは同時に起こっており,どちらかが先に起こるというものではない。 を持っていただきたい。 また,存在を説明するためには哲学などの諸学をもって,我々は行っている。 (この場合の哲学は,フッサールの哲学,というわけではなく探求し続ける姿勢そのものを示している) またそのほかにも最も厳密とされる数学などが,用いられているわけだが,存在を了解しようとするこれらの学問すら,これらの学問が「存在する」ことを了解されなければならない。 つまり,存在を了解することは,学問を了解しその基礎付けを行うことでもある。 そして,存在者というのは根源的な対象であった。 根源的な対象が持つ課題が解決されれば,その解によって諸学を支えている基礎付けがより強固となる。 というのがハイデガーの主張である。 探求対象である,存在もしくは存在者が明瞭になれば,たしかに,探求としてのツール最寄り強固なものになる。 このあたりは,後期フッサールが目指していた危機とも関連があると思われる。 が,この図書自体はそれよりも前だった(?)はずなので,なんとも言えないところである。 2.最も原理的であると同時に最も具体的な問いであ...

1-2 存在への問いの形式的構造

問うこととは一体何か?  →問うことと言うのはつまり探求することである。 探求についてはハイデガーはこのように述べている 「探求することは、探求されるものの方から先行的にその方向を定められている」  詰まるところ,疑問が提出されたときに,回答の方向性がある程度定まっていないものは,その方向性が定められていない,ということである。 1-1で述べられたように,「存在とは何か?」という探求には,上記の理由から問題がある、とハイデガーは考えているのである。 その問題点とは ・「存在とは何であるか」この「ある」について我々は概念的に捉えておらず,規定されていない。  わかりにくい説明になるが,「what is being?」とすると見えやすい。  存在(being)はisの変化したものであり,この問いをするのであれば,isとbeingの違いを明確にしなければならない。しかし,まずisとは何か,を規定していない。 ・存在が問われる際に,問いかけられているのは存在者自身。しかし,存在者は多様なあり方をしており,様々な態度をとっている。  これについては自明の理か。そこまで説明を要するものではないが,1-1の通り,あることがすでにその存在している側に内包されている。 ここで解決しなければいけないのは, 1,いかなる存在者から出発すべきか?  1-1,この出発点は任意のものか?  1-2,特定の存在者は他の存在者よりも優位なのか? という疑問点を解決しなければいけない。 ハイデガーが提出した,存在者は 問う者それ自身である。つまり存在者である自身を先行的に明らかにする 。 と規定している。   ただ,ここで存在を問うさいに自身を設定することは、循環論証になるのではないか,と疑問点が提出される。 つまり,Aという存在者の定義をBとしたとき,Bという定義が存在しなければいけず,その存在を定義しなければいけない。というように,循環していく。 これについて,ハイデガーはそうではないという。 存在者の前提として「存在していること」であり,一方で「存在」はすでに了解されている。 つまり,存在者の中には『存在』の了解が含まれており, ・存在者を問うことで,存在から解答が示さ...

1-1 存在への問いを表立って繰り返すことの必然性

この節は,存在と時間への導入に当たる節である。 それ故に,困難なことは書いてはいない。 ・存在を問うこと?  存在を問うことは,古代ギリシャでは良く行われていた,らしい。  だが,問うことはアリストテレス・プラトン以降の哲学の問題とはならなかった。  なぜだろうか?   存在とは,あらゆる人が絶えず用い、それが何を意味するか理解している。   つまり,    ハイデガーは存在について,アプリオリ的な概念としている。 と存在と時間では読むことができる。 そりゃぁ、ね。自分が存在していることに疑問を提出する瞬間はあれども,それが常になのか? と問われるととても疑問が残る。というか答えることが出来ないのである。 むしろ,存在していることが疑えるのか,という問いも出てくる。 ライブニッツあたりが,「世界五秒前誕生説」という思考実験を行ったが, 5秒前に存在していなかったことを肯定することは,そもそも認識できない。 そんなわけで,存在を問うこと,というのは 自明すぎて仕方が無いため,長いこと放置されていた。 補足)ハイデガーに寄ればヘーゲルが再度している形跡がある。     形跡菜だけで,アリストテレスと同じところで止まっている,といっている。 さて, ハイデガー曰く 「存在は最も普遍的で、最も空虚な概念であると言われている」 そうなのだが, 次の三つの理由から,らしい。 1.存在は,最も普遍的な概念である (普遍とは最も明瞭というわけではなく, 曖昧 である) 全てを超越しているが故に,それを規定することができない,という意味。 2.存在という概念は定義不可能である (存在はいかなる性質も与えられず,存在者に帰する) りすはりす以外にはなれない。人間は人間以外になれない。 しかし,この二つは存在している。 りすがどのような存在かは定義できるし,人間がどういう存在かは定義できる。 しかし,存在がいかなるものか,ということは定義できない。 Aが存在している,というときに,その存在の性質はAである。 ただし,存在の性質はその対象によって異なり,定義できない。といえる。 この定義についても,それらの存在を前提にしているため,それらの存在するものに帰って行くのである。 3.存在...

ブログ紹介

本ブログは,管理人ぎんいろ,がただただ「存在と時間」の一節や区切りの 良いところまで読んだ結果、、どう解釈しているのかを記述していくブログです。 管理人のぎんいろは ただ,大学の頃から現象学に触れているだけの,学問的に哲学を修めたような 人間ではありません。 ただの看護学科の助教です。 専門は,緩和ケア関連の患者の体験についての研究です。 そのため,現象学的研究に触れることが多く 研究方法にも多少の知見があります。 本当は,フッサールあたりを読んでいきたかったのですが,ブリタニカ草稿を読み, 再び,ハイデガーに戻ってきたような形で,フッサール現象学との袂を分かったわけではありません。 むしろ,今の考えは,ハイデガー寄りのフッサールであると思っていますが, ただ,一つ言えるのは,読んでいくのはぎんいろであり, 思考しているのもぎんいろである。 つまり,これは存在と時間を読む,ぎんいろの現象学であるかもしれない。 それをできれば,念頭に置いてもらいたい。 ちなみに,たまに,現象学的研究(特に看護)を取り上げて クリティークしていきたいと思っている。 よろしく! ちなみに,図書については,下記のものを使っていく。