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1-3.存在問題の存在論的な優位

お久しぶりの,哲学部。 1.何のために「存在とは?」という問いが役に立つのか? 2.最も原理的であると同時に最も具体的な問いであるのか? という二つの問いについて,この節では取り扱っている。 まずは, 1.何のために「存在とは?」という問いが役に立つのか? なぜ問うのか。。 問うことにより,何らかの利益がるからである。 ここはあたりまえであろう。 ハイデガーは, 「存在者を存在者として研究し尽くして、すでにある存在了解内容の内で働いている諸学を可能にするアプリオリな条件,基礎付け、そして、諸存在自身を可能にする条件」 と述べている。 ハイデガーの原著は基本的にわかりにくい。 言葉が難しい上に,しかもその言葉が定義されずに使われている,ということが多い。 今回のケースでは,言葉自体は定義されているので,前節に少し戻るとわかるかもしれない。 まず,前提として 存在するということは存在者がすでに先行的に理解している。 私という人間が存在するためには,私という存在者がいなければならない。 ただし、これは同時に起こっており,どちらかが先に起こるというものではない。 を持っていただきたい。 また,存在を説明するためには哲学などの諸学をもって,我々は行っている。 (この場合の哲学は,フッサールの哲学,というわけではなく探求し続ける姿勢そのものを示している) またそのほかにも最も厳密とされる数学などが,用いられているわけだが,存在を了解しようとするこれらの学問すら,これらの学問が「存在する」ことを了解されなければならない。 つまり,存在を了解することは,学問を了解しその基礎付けを行うことでもある。 そして,存在者というのは根源的な対象であった。 根源的な対象が持つ課題が解決されれば,その解によって諸学を支えている基礎付けがより強固となる。 というのがハイデガーの主張である。 探求対象である,存在もしくは存在者が明瞭になれば,たしかに,探求としてのツール最寄り強固なものになる。 このあたりは,後期フッサールが目指していた危機とも関連があると思われる。 が,この図書自体はそれよりも前だった(?)はずなので,なんとも言えないところである。 2.最も原理的であると同時に最も具体的な問いであ...

1-2 存在への問いの形式的構造

問うこととは一体何か?  →問うことと言うのはつまり探求することである。 探求についてはハイデガーはこのように述べている 「探求することは、探求されるものの方から先行的にその方向を定められている」  詰まるところ,疑問が提出されたときに,回答の方向性がある程度定まっていないものは,その方向性が定められていない,ということである。 1-1で述べられたように,「存在とは何か?」という探求には,上記の理由から問題がある、とハイデガーは考えているのである。 その問題点とは ・「存在とは何であるか」この「ある」について我々は概念的に捉えておらず,規定されていない。  わかりにくい説明になるが,「what is being?」とすると見えやすい。  存在(being)はisの変化したものであり,この問いをするのであれば,isとbeingの違いを明確にしなければならない。しかし,まずisとは何か,を規定していない。 ・存在が問われる際に,問いかけられているのは存在者自身。しかし,存在者は多様なあり方をしており,様々な態度をとっている。  これについては自明の理か。そこまで説明を要するものではないが,1-1の通り,あることがすでにその存在している側に内包されている。 ここで解決しなければいけないのは, 1,いかなる存在者から出発すべきか?  1-1,この出発点は任意のものか?  1-2,特定の存在者は他の存在者よりも優位なのか? という疑問点を解決しなければいけない。 ハイデガーが提出した,存在者は 問う者それ自身である。つまり存在者である自身を先行的に明らかにする 。 と規定している。   ただ,ここで存在を問うさいに自身を設定することは、循環論証になるのではないか,と疑問点が提出される。 つまり,Aという存在者の定義をBとしたとき,Bという定義が存在しなければいけず,その存在を定義しなければいけない。というように,循環していく。 これについて,ハイデガーはそうではないという。 存在者の前提として「存在していること」であり,一方で「存在」はすでに了解されている。 つまり,存在者の中には『存在』の了解が含まれており, ・存在者を問うことで,存在から解答が示さ...

1-1 存在への問いを表立って繰り返すことの必然性

この節は,存在と時間への導入に当たる節である。 それ故に,困難なことは書いてはいない。 ・存在を問うこと?  存在を問うことは,古代ギリシャでは良く行われていた,らしい。  だが,問うことはアリストテレス・プラトン以降の哲学の問題とはならなかった。  なぜだろうか?   存在とは,あらゆる人が絶えず用い、それが何を意味するか理解している。   つまり,    ハイデガーは存在について,アプリオリ的な概念としている。 と存在と時間では読むことができる。 そりゃぁ、ね。自分が存在していることに疑問を提出する瞬間はあれども,それが常になのか? と問われるととても疑問が残る。というか答えることが出来ないのである。 むしろ,存在していることが疑えるのか,という問いも出てくる。 ライブニッツあたりが,「世界五秒前誕生説」という思考実験を行ったが, 5秒前に存在していなかったことを肯定することは,そもそも認識できない。 そんなわけで,存在を問うこと,というのは 自明すぎて仕方が無いため,長いこと放置されていた。 補足)ハイデガーに寄ればヘーゲルが再度している形跡がある。     形跡菜だけで,アリストテレスと同じところで止まっている,といっている。 さて, ハイデガー曰く 「存在は最も普遍的で、最も空虚な概念であると言われている」 そうなのだが, 次の三つの理由から,らしい。 1.存在は,最も普遍的な概念である (普遍とは最も明瞭というわけではなく, 曖昧 である) 全てを超越しているが故に,それを規定することができない,という意味。 2.存在という概念は定義不可能である (存在はいかなる性質も与えられず,存在者に帰する) りすはりす以外にはなれない。人間は人間以外になれない。 しかし,この二つは存在している。 りすがどのような存在かは定義できるし,人間がどういう存在かは定義できる。 しかし,存在がいかなるものか,ということは定義できない。 Aが存在している,というときに,その存在の性質はAである。 ただし,存在の性質はその対象によって異なり,定義できない。といえる。 この定義についても,それらの存在を前提にしているため,それらの存在するものに帰って行くのである。 3.存在...

ブログ紹介

本ブログは,管理人ぎんいろ,がただただ「存在と時間」の一節や区切りの 良いところまで読んだ結果、、どう解釈しているのかを記述していくブログです。 管理人のぎんいろは ただ,大学の頃から現象学に触れているだけの,学問的に哲学を修めたような 人間ではありません。 ただの看護学科の助教です。 専門は,緩和ケア関連の患者の体験についての研究です。 そのため,現象学的研究に触れることが多く 研究方法にも多少の知見があります。 本当は,フッサールあたりを読んでいきたかったのですが,ブリタニカ草稿を読み, 再び,ハイデガーに戻ってきたような形で,フッサール現象学との袂を分かったわけではありません。 むしろ,今の考えは,ハイデガー寄りのフッサールであると思っていますが, ただ,一つ言えるのは,読んでいくのはぎんいろであり, 思考しているのもぎんいろである。 つまり,これは存在と時間を読む,ぎんいろの現象学であるかもしれない。 それをできれば,念頭に置いてもらいたい。 ちなみに,たまに,現象学的研究(特に看護)を取り上げて クリティークしていきたいと思っている。 よろしく! ちなみに,図書については,下記のものを使っていく。